ネタバレを呪う病 ~「ネタバレは悪」という先入観~

 「以降、ネタバレを含むので、気にする方は先に本編を読む(観る)ことをオススメします」

 これは私が、よく特定の作品についてのレビュー・評論を行う際に、毎度書く決まり文句である。

 基本的に、私はネタバレを含まないレビューは書かないし書けない。なぜなら私個人としては、ネタバレを含まない「レビュー」は、真の意味で「レビュー」と呼べるのかどうかに疑問があるからだ。

 私がこの文章を元々寄稿した団体における「レビュー」の定義は、あくまで「詩または小説ではない文章」という程度のものであった。そういう意味では、ネタバレを含まない作品紹介的な評論も「レビュー」に含まれていた。しかし、私の考えるレビューの定義は少し違う。私はレビューとは、「批評」と等価であると考えている。

 「批評」とGoogleで検索すると、意味として、「《名・ス他》よい点・悪い点などを指摘して、価値を決めること。」と出てくる。つまり、作品の善し悪しを評価することを批評と呼ぶのだ。それであってこそ「Re・veiw」、つまり「作品を振り返る行為」であるように思われる。

 何かについて善し悪しを決めるためには、そのものについて詳しく知り、その本質を見極め、その上で論を考えなくてはならない。そして、その考えを誰かに伝えるためには、作品のオチ、つまり1番面白いところ、作者が1番描きたかったところについても話さなくてはならず、それをしないと正しい意味での「レビュー」とはならないのではないか、と考えてしまうのである。だから、私はネタバレの無いレビューは、作品紹介でしかなく、表層についてしか触れていないのではないか、とすら思ってしまう。

 ただし、ネタバレをしないレビューを否定するつもりはない。多くの人はネタバレを忌み嫌う。だからこそ、私だって最初の注意の文言が必要になるのだから。

 ここで疑問が生まれる。でも本当に「ネタバレ」ってそこまで悪なのだろうか? そんな親の敵みたいに扱われるべきものなのだろうか? (それこそこの文章のネタバレであるが、)私にはネタバレなんて些細な問題でしか無く、本質では無いように思われる。それを完全な悪であるかのように批判する昨今は、病的なように思える。以降その理由について述べていく。

 これはあくまで私の持論であり、戯言であるので、そんな意見もあるのかという程度に読んでいただけると幸いである。勿論批判もご随意に。

 さて、まず私の立場を表明しておかなければならない。私はこんな文章を書くくらいだから、もちろんネタバレ否定派ではない。しかし、ネタバレを推奨するつもりも無い。「ネタバレをされたとしても、されなかったとしても、本質は何も変わらない」というのが私の立場である。そして、ネタバレをされない方が良いか、された方が良いかなんて、ただの好みの問題としか思えないのだ。だからこそ、ネタバレを嫌う人にネタバレを行おうとも思わない。そして最初の文言が生まれるのである。

 順を追って説明しよう。まず、ネタバレを否定する、嫌う人が最初に挙げるその理由は、「ネタバレをされることによって、先やオチが分かってしまい、作品を鑑賞し続ける面白みが無くなってしまう」というものだ。

 確かに一理ある。あらゆる物語はオチに向かって描かれており、そのオチを描くために全てが積み上げられているためだ。

 しかし、私には、ネタバレがあったとしてもそれはただ単に順番が違うだけであり、本質では無いように思われる。

 ここで真に大切なのは、いかにオチへ向かうかという過程である。オチを知ってしまったとしても、そこに向かうまでの過程は知らない訳で、その過程でいかにラストに向かうのかというその流れを楽しめるというのは何も変わっていないのだ。むしろ、オチを知ったからこそ、そのオチへ向かうための伏線に気づくことが出来たり、詳細に考えながら読むなり観るなりすることが出来たりというメリットも存在する。オチを知ることで、細かい描写に気をつけながら楽しむことが出来るのだ。

 例えば、推理小説の例を考える。事件の黒幕が最後に明かされる、というようなものだ。多くの人は、その犯人を推理することを目的として文章を読む。だからこそ、犯人を途中でばらされることは、悪であると考える。

 しかし、最初に犯人が分かっていたとしても、犯人が犯行に及ぶまでの過程は分からない。なぜその人が事件を起こしたのか、どんな道具を使って犯行を行ったのか、などその内容・過程は読んでみるまで分からないのだ。

 つまり、その人が犯人だと分かったとしても、その人が事件を起こす動機を探りながら読むという事は出来るし、いかにしてその人が犯人であることが発覚するのかという過程を楽しむという意味では何も変わっていない。つまり、ラストへと向かうその過程が面白いというのは変わっていないのだ。

 例えば、この文章だってそうで、上の方で「(それこそこの文章のネタバレであるが、)私にはネタバレなんて些細な問題……」と書いているが、この「ネタバレ」を否定する人はいないだろう。論文において、最初に結論を書き、その後理由を書き、最後に結論でまとめるという手法は一般に認められている。その方が理解しやすいからだ。学校の授業で、初回に全体の概要を説明し、2回目以降の講義で、詳細について説明するという形式のものも同様である。その方が分かりやすいし、結論よりも、いかにその結論にたどり着くかの過程を重視しているためである。だからこのような形式の論文や講義を否定する人はいない。つまり、結論やオチが分かっているかどうかは本質的ではない、ネタバレは本質的では無いのである。

 また、ラストが分かっているとつまらなくなる、と本当に思うのであれば、「全米が泣いた」なんて謳い文句は存在し得ないだろう。例えば、不治の病で余命一ヶ月の人と暮らす恋愛映画なんてものはそこら中にあるが、こんな作品は存在し得ないのだ。この手の作品は、どうせ最後には死ぬとみんな分かってから見始める。それでも、そのラストへ向かっていく中で、主人公達が愛し合う過程を見てからラストを迎えるからこそ、涙するのだ。

 つまり、いかにラストへとたどり着くかの過程こそが大切で、ラストを知っているかどうかは本質では無いのである。

 さらに、本当に面白い作品ならば、ラストが分かったくらいで、つまらなくなるなんてことはない。ラストが分かっただけで面白く無くなるのであれば、そんな作品はラストにしか意味の無い駄作ではないだろうかとも思ってしまう。

 この私の論に対する大抵の反論はこうだ。

「オチを知った状態で、そこまでの過程を楽しむというのは『2回目』の楽しみ方であり、『1回目』の楽しみ方では無い。何も知らない状態で楽しむ、という『1回目』の純粋な楽しみが永遠に失われてしまう」

 確かにその通りである。何も知らないからこそ出来る「1回目」の楽しみ方は出来なくなってしまうかもしれない。

 しかし、そこに先入観があるのではないか。逆に考えれば、「1回目」を純粋に楽しむ、王道な楽しみ方をすることによって、ある程度オチを知った状態で「1回目」を楽しむ、「1回目」と「2回目」を同時に楽しむというある種邪道かもしれない楽しみ方、というのは永遠に失われてしまうのである。

 例えば、推理小説の例を挙げるとすれば、確かに犯人を知らない状態で楽しむというのが、王道な一般的な「1回目」であり、それが本来の楽しみ方である。しかし、上記の通り、犯人を知った状態で読む、つまり、ラストは知っているのにも関わらず、そこまでの過程は知らないので、オチへとどのようにして繋がるのかを推理する事が出来る「1回目」という、1つの邪道な楽しみ方は永遠に失われてしまうのである。犯人を知っているからこそ気づくことが出来る伏線に気が付いたり、犯人を知っているからこそ出来る推理をしたりするというのもそれはそれでオツなものだ。

 私がこの話をするときに必ず挙げるのが、推理小説に対して、刑事ドラマの例である。刑事ドラマでは、犯人が最初から分かっているものも多い。犯人は分かっているが、その犯人が残した手がかりや足跡を1つ1つに拾っていき、最後に追い詰めた犯人を捕まえるという流れだ。このような作品では犯人が分かっているからつまらないということは無い。これはこれで面白い形なのである。

 当たり前だが、どんな作品を楽しむ上でも「1回目」というのは一度しか無い。だからどちらかしか選択できない。どちらが良いか両方を比較するなんてことは不可能である。そして、その邪道な楽しみ方には邪道な楽しみ方の面白さというものがある。私はどちらも面白いと思うし、別に王道な楽しみ方が全てであるようには思えない。王道な楽しみ方も邪道な楽しみ方もただの好みの差でしかないように思えるのだ。だからこそネタバレをされたからといってつまらなくなるというのは、理解出来ないわけではないが、少し違う気がする。

 例えるならば、幼稚園児がお弁当を食べるときに、好きなものから食べるか、好きなものを最後に食べるか位の差と同じようなもの。先においしいところを食べたとしても、あとでおいしいところを食べたとしても、お弁当全体での完成度は同じであり、食べ終わったときの満足感・満腹感(つまり私の言いたい本質)は変わらない。それはどっちが好みかというだけの差でしか無いのだ。

 ただ、「好みの問題」であるからこそ、私はネタバレが嫌いな人に対して、ネタバレを強要しようとは思わないし、そのような人にネタバレを行おうとも思わない。またそのような人にネタバレをしようとするその行為は悪であると思う。嫌いな物を嫌いな人に勧めても誰も得をしないからだ。

 単に「ネタバレ」というものそれ自体は悪では無いのでは、と考えるのである。 

 上記の論をまとめると、私はネタバレをしたからといって、作品の面白みや本質は何も損なわれないし、ネタバレをされた時にはその時にしか出来ない楽しみ方があると考えている。ネタバレを好む好まざるの違いが生まれるのは、間違っていないが、ネタバレを悪と考え、全否定するというのは先入観にとらえられているだけでは無いだろうか。

 そしてそれ故、今日のネタバレを嫌う傾向は病的であるようにすら思えてしまう。ネタバレを悪だと考えるのも理解出来るし、1つの価値観としては正しいと思うが、もう少し視野を広げても良いのでは?

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